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しまぞーり 私のウチナーグチ考 しまぞーり

1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、 両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思 い入れを紹介します。

第28回 那覇と首里

 自己紹介などで沖縄出身です、と言うとたいてい沖縄のどこですか、と尋ねられます。そう尋ね る人には沖縄通が多いので、「首里です。」と答えます。そうすると、ああ、首里城のあるところ ですね、などと話が弾んでいく場合が多いのですが、あまり沖縄のことを知らなさそうな人には「 那覇市です。」と答えます。県庁所在地だから一応知っているだろう、と思うから です。一般的には首里は那覇市の一部で、住所を書く時も「那覇市首里」と書きます。でも、 実のところ私の中では那覇と首里は全く別の町。

 1954年に小録村(現在の那覇市小録で、那覇空港周辺)と共に那覇市に併合されるまで、首里 は首里市として独立したまちだったのです。なので、私が物心ついた頃、那覇市に併合されてから 10年以上経っているのに、那覇の平和通りや公設市場へ買い物へ行くことを「那覇へ行く」と言っ たり、首里以外の那覇市内に住んでいるおばさんのことを「那覇のおばさん」と呼んだりしていまし た。

 首里で生まれ育った首里人(すいんちゅ) は自分のことを那覇に住む那覇人(なーふぁんちゅ) とは思っていない、ということを最初に認識したのは、やはり首里人( すいんちゅ)の担任の教師がこのことを「十年以上前から那覇市なのに」と 指摘した小学校三年生のときです。それ以来何となく意識していたことですが、大学の頃同じクラスに首里人( すいんちゅ)の女子が私以外にもう一人いて、ある時私たち二人はクラスメイトの男子から 「首里の人だけ、自分達のことを首里人(すいんちゅ) とか言って、優越感を持っているように聞こえる。」と言われました。彼はブラジル生まれで17歳の 頃沖縄に来た人だったので、外から見て首里人(すいんちゅ) はちょっと違う、と感じたのかもしれませんが、ドキリとした発言でした。優越感を 持っているわけではない、と思いたいところですが、自分達を他の那覇人( なーふぁんちゅ)と一緒にして欲しくない、と思っているのは確かかもしれ ません。

 私の父や祖母はよく
首里(すい)やすりぃずりぃ
那覇(なーふぁ)やなーはいばい


と言っていましたが、「首里の人はどこへ行くにも何をするにも皆そろって、那覇の人は自分勝手 でばらばら」という意味で、「すい」と「すりぃ」、「なーふぁ」と「なーは」が駄洒落になって います。駄洒落が大好きな子供には分かりやすく、覚えやすい言い習わしでした。標準語でその意 味を説明をする時、父や祖母は明らかに首里人(すいんちゅ )那覇人(なーふぁんちゅ) と違って他人を思いやる余裕がある、わがままではない、という優越意識があったと思うのですが、 裏を返せば首里の人は横並び意識が強く、那覇の人は独立心が強く進取の気象に富んでいる、とい うことだと思います。

 要は首里は王国時代の政治の中心地であり、那覇は商業の中心地、したがって人の気性も違う、 ということです。京都と大阪が同じ関西でありながら全く違う、ということと一緒だと思います。 高校時代、首里中学から那覇高校へ進学した同級生から、体育の時間に遅刻をするのは首里中出 身の生徒がほとんど、という話を聞いてやっぱりね、と笑ったことがあります。首里 人(すいんちゅ)は上品でおっとりしていると言えば聞 こえは良いけれど、動作が鈍くてドン臭い、とも言えるのです。

 今ではモノレールも通ってますます一体化している那覇と首里ですが、今でも 首里人(すいんちゅ)那覇人 (なーふぁんちゅ)という意識は残っているのでしょうか。それぞ れに誇りを持って、残っていて欲しいと思います。

2/10/09

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