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私のウチナーグチ考
1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、
両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思
い入れを紹介します。
第23回 ドルの思い出
今回は沖縄が本土に復帰するまで使用されていた通貨、ドルについて書いてみます。
沖縄は終戦と同時に米軍統治下に置かれましたが、すぐに米ドルが流通したわけではなく、軍票や
B円と呼ばれる通貨などがしばらく使用された後、米ドルに落ち着いたようです。親がB円という通
貨もあった、と話しているのを聞いたことはありますが、私が物心ついた頃はお金と言えばドル。
と言っても、小学生までの子供時代のことなので、普段手にするのは硬貨のセント。あんパンや渦
巻きパンが5セントで、ヨーグルト(沖縄ではヨーゴのことを復帰前はなぜかヨーグルトと呼んでい
ました)も5セントだったので、我が家では親が忙しい時はおやつ代として10セントもらうのが
日常的でした。駄菓子屋へはあまり行かせてもらえませんでしたが、そこでは綿菓子(わたあめと呼
ばれていた)が2セント、風船ガムが1セント、得体の知れないお菓子はたいてい1、2セントで
売られていたので、10セントもあれば友達におごることも出来たのです。
駄菓子屋は「一銭まちや(方言で
店という意味)」と呼ばれていたし、誰一人としてセントのことを「セント」と発音せず、「セン」、
具志堅用高みたいな人は「シェン」と言っていたので、私は沖縄では日本の昔の通貨「銭」がなぜか
今でも使われているのだ、と思っていました。硬貨は昔ながらの銭なのに、お札は何でドルなんだろ
う、と疑問を抱いていたかもしれません。ともあれ、普段ドル紙幣を手にすることはほとんどなかっ
たので、私の子供の頃のお金は、意識の上では実は「銭」だった、とも言えます。
一銭まちやではなく、食品店で売られているちゃんとしたお菓子、キャラメルとかチョコフレーク
などは高くて自分で買うことは出来ず、親以外の気前のいい大人に買ってもらうものでしたが、それ
も滅多にありませんでした。遠足の時は持っていけるお菓子の合計金額は70セントまで、と決まっ
ていて、この時ばかりは普段買えないお菓子をあれこれ選ぶのが楽しみでした。
お年玉も、お札が入っていることはまずなく、たいてい50セント硬貨が一枚。名前も知らない
親戚のおじさんだったりすると、25セント、10セント硬貨も珍しくありませんでした。特に母方
はいとこが20人もいて、祖母の小さな家は子供であふれかえっている状態だったので高額なお年玉
は端から期待出来ませんでした。そんな祖母の家で、あるお正月。コーラー(沖縄ではコーラをこう
発音するのです)が無くなりそうだから(お正月やお盆には、子供は湯のみ茶碗でコーラ飲み放題で
した)一ケース買ってきて、ともう一人の従姉と一緒にお使いに行かされました。木箱に入ったビン
入りコカコーラを従姉と二人えっちらおっちら運んで、帰ってきてみると・・・
弟達が「ねえちゃん、これ!」と一ドル札をひらひらさせて駆け寄ってくるではありませんか!
聞けば、私たちがお使いに行っている間に、ハワイ帰りというおじさんが年始のあいさつにやってき
て、帰る前に子供一人一人に一ドル札を渡した、と言うのです。私と従姉はほんの数分の差で、一ドルと
いう大金をもらいそびれたのでした。狂喜乱舞する弟達の横で、私たちはがっくりと肩を落としまし
た。普段はお茶目な図々しさを発揮するおばさんも、さすがに20人近い子供に一ドルずつ配った人
に、実はあと二人いるんです、とは言えなかったのでしょうね。それが分かっているから私たちは、
お使いに行かせたおばさんを責めることはせず、ただ自分達の不運をかこっていました。
あこがれだった一ドルも、今では100円程度の価値しかありませんが、当時の感覚だと千円以上
の価値があったように思います。現在沖縄でもお年玉袋の中身は最低でも千円であることを考えると、
一ドルはやっぱり三千円とか五千円くらいの価値があったのでは、と思う一方、沖縄の暮らしもそれ
なりに豊かになったのかな、とも思います。
7/02/08
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