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しまぞーり 私のウチナーグチ考 しまぞーり

1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、 両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思 い入れを紹介します。

第22回 本土復帰(1972年5月15日)の思い出

 沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した時、私は小学校6年生で「本土に復帰する」ということがどう いうことなのかよく分かっていませんでした。物心ついたときから、本土復帰を目指して社会がざわ ついていることは、何となく分かっていましたが。今回は本土復帰の日から半月経ってしまいました が、私にとっての本土復帰について、つらつら書いてみようと思います。

 一番最初に「本土復帰」という言葉を聞いたのは小学校3年生の時で、担任の先生が本土復帰の必 要性を熱心に訴えていました。私たちはパスポートが無いと本土に行けないんですよ、と言っていま したが、私にはその理不尽さが今一つ分かっていませんでした。

 沖縄がどうやら日本の他の県とは違うらしい、ということは薄々感じていましたが、明確に意識し たのは小学校5年生の時。当時は結構文通が流行っていて、漫画のページの端に小さな字で「ペンパ ル募集」広告が載っていたのですが、文通は好奇心旺盛で手紙を書くのが大好きな私には格好の趣味 でした。少女マンガのペンパル募集広告で、自分と同い年でウマが合いそうな女の子を見つけると、 せっせと手紙を出して常時2、3人と文通していました。

 いつも親に教えられた通り自分の住所を「沖縄 那覇市」と書いていたのですが、あるとき無意識 に「沖縄県那覇市」と書いてしまいました。それを見た両親は「う〜ん、沖縄県じゃないんだよね」 とちょっと困った顔。その時初めて、なぜ文通相手の住所には静岡県とか新潟県とか県がつくのに、 沖縄は沖縄県じゃないの?と疑問に思ったような気がします。しばらくして、苦笑いしながら「まあ、 いいさ。もうすぐ沖縄県になるんだし、ちゃんと届くはずよ。」と切手(琉球切手です)を貼ってく れました。当時、その「もうすぐ」が翌年の5月15日なのを、私は知りませんでしたが。

 もうすぐ復帰するんだな、ということを明確に意識したのが復帰の年の1972年のお正月でした。 大阪で暮らしている親戚の伯父さんが里帰りしていて、初めて会うその伯父さんが、今は使 えないけど復帰したら使えるようになるから、と言って私たち姉弟に500円札をお年玉としてくれ ました。これが、私が日本円を見た最初です。それまでドルを使っていた私たちから見れば妙に大き くぺらぺらで、青くてとてもお金には見えません。復帰したら、こんなお札を使うようになるんだ、 と不思議な気がしました。

 この頃、周囲の大人たちはずっと1ドル=360円だった為替レートが、1ドル=305円に切り 下げられる、と大騒ぎでした。このときもちろん私に大人たちが大騒ぎをして怒っている理由は分か らず、これから私たちが使うことになる円の価値が上がるのはいいことじゃないの、と無邪気に言い 放つ私に対し、父は顔を真っ赤にしてなぜ困るのかを説明しました。この頃には、自分達がこつこつ と働いて蓄えたわずかばかりの資産は目減りするし、基地は無くならないし、自衛隊が駐屯するらし いし、大人たちの本土復帰に対する幻想は完全に失望に変わっていたように思います。

 実際に本土復帰して、通貨が円に変わったとき、1円玉の軽さにはびっくりしました。重量の軽さ もさることながら、ドルの時一番小額の1セントでも、駄菓子屋に行けば風船ガム1個、くじ引きの 2回くらいは買えたのに、1円では何も買えません。使う場面がほとんどなくて、1円玉の存在理由 が全く分かりませんでした。その後消費税が導入されて、やっとウチナーンチュにも1円玉の存在価 値が出てきたように思います。お金といえば、私の父は財布を持っているときでもお金をポケット に突っ込む癖があって、ポケットにお金を入れたままズボンを洗濯することがありました。そうする と紙幣は当然皺くちゃになるのですが、ドルの時にはそれでも原型を留めていたのに、円のお札は すっかり千切れてぼろぼろになり、使用不能となってしまうのでした。そういうわけで、我が家では 円の評判は良くありませんでした。このエピソードを知人に話したら、昔はそうだったかもしれないけ ど、今は円でも洗濯しても大丈夫なはず、と反論されました。確かめることは出来ませんが、円も その後何度も改良されて、おそらくその通りなのでしょう。

 本土復帰で嬉しかったのは、沖縄の小学生全員に当時大流行していたニコニコマーク(今もスマイ リーとして人気)の黄色い下敷きとペンケースが配られたこと。学校で配られる文房具はダサいもの と決まっていたのに、この時は流行中の高価なもので、配られた時にはほんの一瞬ですがお祝い気分 になった気がします。でも、この下敷きとペンケースをもらって、つまり本土復帰で、私の無邪気な 子供時代は終わった気もします。

6/02/08

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