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私のウチナーグチ考
1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、
両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思
い入れを紹介します。
第39回 もう一人の祖母
私の母方、父方の祖父は二人とも沖縄戦で亡くなっていますが、祖母は二人とも私が二十歳に
なるまで元気でした。今回は子供の頃一緒に住み、第7回 オバア達の外来語・その2
や第35回 祖母のカンプーにも登場した父方の祖母ではなく、母方の
祖母と彼女のウチナーグチにまつわる思い出を紹介したいと思います。
沖縄ではおばあさんのことをオバアと呼びますが、私は首里で一緒に住んでいた祖母を「おばあちゃん」、
知念村に住んでいた母方の祖母のことは、いとこ達と同じようにウンメーと呼んでいました。
直接祖母から聞いたことはありませんが、もともと首里の士族の出であることを誇りにしていた祖母は、
オバアは百姓が使う言葉であり、自分のことは侍ことばであるウンメーと呼べ、と
言っていたようで、うっかり近所の子と同じようにオバアと呼びかけようものなら、目をむいて
怒っていました。
おばあちゃん(父方の祖母、以下おばあちゃん)は私たち孫を含め子どもと話す時は100%標準語
を話していましたが、ウンメー(母方の祖母、以下ウンメー)は標準語が全くと言っていいほど話せ
ませんでした。子供の頃、ウンメーの家へ遊びに行くと、「あなた方は車で来たのか。」などと、へ
たくそな翻訳みたいな、妙にフォーマルな言い回しで聞かれました。今から考えると、彼女にとっては
日本語は学校で習うだけの、まさに外国語だったのでしょう。ウチナーグチが話せない私と、日本語が
外国人程度にしか話せないウンメーの間ではほとんど会話が成立せず、子供の頃は母や叔母が通訳と
なり、私が少し大きくなってウチナーグチを聞くことは出来るようになると、必要に迫られた場合は
私が標準語、ウンメーがウチナーグチでごく短い会話をしていました。
ウンメー:「かめー」 食べなさい
私:「いただきます。」
といった具合に。
そんな私とウンメーは、ことばが通じないのに、というかそのせいで、意外と仲良しでした。一緒に
暮らす両親やおばあちゃんには結構反抗的だった私も、ウンメーには素直というか、やさしい気持ちに
なれたのです。ウンメーには孫が20人以上もいましたが、私は唯一の女の外孫で、特に可愛がられ
たせいかもしれません。トートーメー(位牌のこと。沖縄では先祖崇拝の対象として特に重要
視されていて、トートーメーを継ぐ男の子は大事にされた)を継ぐことになっていた従兄には及びま
せんが、私も弟たちより多めにお年玉やお小遣いをもらっていました。話し相手にもならないけれど、
思春期になっても盆と正月にはまちがた(都会)からやって来る孫娘は、可哀想で可愛い存
在だったかもしれません。
なのでウンメーが70代になり介護が必要になった時は、私は自ら進んでお手伝いに出かけました。
ごはんを食べさせたりお風呂に入れたりするのが、仕事です。ごはんを食べさせていると、いきなり
歯がスプーンの上に落ちてきて、跳び上がらんばかりに驚いた私はこのとき初めて、彼女の歯が入れ
歯であることを知ったり、お風呂で服を脱ぐのを嫌がっているのは、おむつをしているのを私に知ら
れたくないからだ、と分かったり。おばあちゃんはいつも元気で介護されることもなく、いわば突発
的な事故で亡くなったので一緒に住んでいても分からなかったのですが、ウンメーからは老いていく
現実や悲しさを教わったような気がします。
ウンメーが住んでいた古い家はお風呂場が離れになっていて、ウンメーの部屋から行くには長い廊下
を歩き、勝手口から履物を履いて出なければなりませんでした。1センチずつしか歩けない祖母の
手を引いて歩いて行くと数十分かかってしまいます。そこで十代の元気な私は、痩せて小柄(身長142センチ)
なウンメーをひょいとおぶって、ほとんど駆け足でお風呂場まで行ったのでした。そんな時、彼女は
決まって「あきさみよー、天ぬんかい
昇とーるぐとーさ」と言っていました。
「天に昇っているようだ」と言っていたわけですが、「天にも昇るような気持ち」で嬉しいのだ、と
解釈した私は移動にはおんぶ、はらはら、制止する叔母たちを無視してスピードを上げていきました。
今思うと、怖くて生きた心地がしない、と解釈すべきだったかも、と反省しきりです。
ウンメーと一緒に暮らしていた叔父一家が旅行などで出かけるときは、私が留守番兼お守りで、泊り
がけで出かけました。料理などろくにしたこともなかった私は、生煮えのゴーヤーチャンプルーを
ウンメーに食べさせ、お風呂に行くにもトイレに行くにもおんぶしまくって、ひいひい言わせていた
のですが、それでも感謝していたのか、私が帰るときには収穫して貯蔵してある野菜があればどっさ
り持たせ、不自由な体で納戸から買い置きの油や洗濯石鹸の箱を引きずり出して、「くりん持
っち行けー(これも持って行きなさい)」と持たせようとしました。「それはいいよ、叔母さん
に怒られるよ。重いし、首里にもあるから。」と必死で断り、野菜だけもらって帰りました。
食事とお風呂以外は一緒にテレビを見たくらいで、話らしい話をした覚えはありません。今なら祖父
との馴れ初めや、母やその兄弟たちの子供の頃の話など、山ほど聞きたいことがあるのに。そんなウ
ンメーは、死ぬ前に一度自分の夫や長男が祀られている靖国神社に行きたい、と言って、叔父と二人で
東京に旅行したことがありました。おそらく最初で最後のヤマト旅行です。ウンメーのよそゆきは化
繊レースのツーピースに草履(シマぞうりではなく、和装用の)だったのですが、沖縄では普通でも
東京でそれはないでしょう、と考えた叔母が靴をプレゼントしました。が、ただでさえ歩き
かんてぃー(歩行困難)しているのに、靴で歩けるか、と断固拒否して草履を履いて行ったようです。ちょっと
見てみたい気がしますね、ツーピースに草履で靖国神社を闊歩する(実際には叔父に手を引かれて
ヨロヨロしていたでしょうけど)ウンメーを。
おばあちゃんの方は洋服の時はピカピカに磨かれた靴を履き、毎年北海道だ香港だと旅行を楽しみ、
独身の晩年を気ままに楽しんでいました。ウンメーは嫁の顔色をうかがいつつ孫の世話や畑仕事に
追われ、孫の世話が終わる頃には要介護となって、最後の5、6年は寝たきりでした。実はこの二人、
明治36年生まれの同い年だったのです。同じような貧しい家に生まれ、ほとんど教育らしい教育を
受けていないのも、戦争で夫や子ども達を失ったのも、同じ。現在格差社会と言われますが、明治時代に那覇に生まれるか知念村に生ま
れるかの違いは、非常に大きかったのだな、と実感します。私にとっては一緒に暮
らしたおばあちゃんはもちろんですが、過ごした時間が短かったウンメーも、懐かしく思い出す大切
な私の祖母です。
7/27/11
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