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私のウチナーグチ考
1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、
両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思
い入れを紹介します。
第31回 母のウチナーグチ
私の母のウチナーグチについては、「オバア達の外来語」で詳しく紹介したことがありますが、
今回は彼女のウチナーグチ使用の変遷について書いてみようと思います。
上で両親との会話は100%標準語と書いている通り、子供の頃両親とウチナーグチで話した記憶は
ほとんどありません。好奇心旺盛な私は大人が使っているウチナーグチについて、もっぱら父に質問し、
父も面白がって質問されていないことまで教えてくれましたが、母には質問もしなかったし、母からは
説教されたり怒られたりした記憶しかないのですが、それも全部標準語でした。
彼女は知念村(現南城市)で生まれ育ち、沖縄の中でもイントネーションが独特な、糸満言葉に近い言葉を話して
いたはずですが、私が子供の頃は普通の、糸満なまりのない標準語やウチナーグチを使っていました。
おかしかったのは、テレビドラマでアメリカ人がしゃべっていて字幕になっていないところでも、
英語が分かる母だけが笑っていることがあって、「今、何て言ったの?」と聞くと必ず方言で答えて
いたことです。知らないウチナーグチを父に聞いている間にドラマが進行して、ますます訳が分か
らなくなる、ということがよくありました。普段はウチナーグチをほとんどしゃべらないくせに、
英語の意味を聞くと必ずウチナーグチなのです。
そんな母の子供としゃべる時は「ほとんど標準語」、田舎なまりが無く標準語もウチナーグチも
首里人みたいにしゃべる、と
いうスタイルがにわかに崩れだしたのは、私が高校生の頃彼女の兄、つまり私の伯父が癌で亡く
なってからでした。ご存知の方も多いと思いますが、沖縄では通夜・告別式の後、親族や近い親戚・
友人は四十九日まで毎週集まります。それまで盆と正月と清明祭の年に3回だけ集まっていた親兄弟と、1週間
に一度、7週連続で集まり話をしていくうちに、母のことばがどんどんおかしくなって、というか
先祖返りして、なまり丸出し、標準語の中にウチナーグチがちょくちょく出現するようになりまし
た。
伯父の死から2、3年後に祖母が亡くなり、その後は大勢いる母のおじさんやおばさん、いとこ
達が亡くなり、毎月のようにナンカ(7日毎の法要)だ、十六日(旧暦1月16日はあの世の正月とされる)だ、
と親戚の家で集まるようになり、年々母のことばは知念村化していきました。昔は首里の人に母が
私は知念村出身よ、と話すと「へえ、全然分からなかった、ことばがきれいだね」などと言われて
いたのに、その頃になると、私と母の会話を聞いていたタクシーの運転手が「アイエー
ナー、ネエさんは
ヤマトゥンチューだと思ったのに、どこの人ね?」とか「ネエさん、糸満の人でしょ。」などと
言っていました。
それでも、子供たちと100%ウチナーグチでしゃべる、ということはなかったのですが、私が
大学のコンパで羽目を外して夜中の3時ごろ帰宅した時のこと。冬なのでパジャマの上にオーバーを羽織
った母が玄関の外で仁王立ちしていて、それだけでもとても恐かったのですが、「遅くなってごめ
ーん。」と母の前を通り過ぎて家の中に入る私の背中に向かって「うぬ足や、
たっち折らねーならんさ。」とぴし
ゃり。標準語で言うと、「この足は、叩き折らなくてはいけないね。」
普段は母の小言なんてどこ吹く風、右から左に流していた私ですが、このときばかりは「ひょえ〜、
恐い。」と縮み上がりました。母が100%ウチナーグチで私にモノ申したのは、この時が最初だ
ったと思います。母の「本気」の怒りがびんびん伝わって、今思い出しても恐いくらいです。この時、
戦後の生活でいくぶんアメリカ化、ヤマト化されているやに見えた母もやっぱりウチナーンチュで、
ウチナーグチを使うと迫力が違う、と思いました。同時に私自身も、普段はウチナーグチを使わなく
てもウチナーグチで叱られると本気で受け止めるから、やっぱりウチナーンチュだな、と実感。
その母のウチナー化、オバア化は留まるところを知らず、今では電話で私と話す時は100%
ウチナーグチ、子供の頃母の得意料理はハンバーグやチキンフライだったのに、今は帰省すると
頼みもしないのに必ずソーキ汁(豚の骨付き肉と昆布、大根などの野菜を煮込んだもの)を作って
くれます。
8/06/09
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