私のウチナーグチ考
1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、
両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思
い入れを紹介します。
第2回で、これからしばらく私の「ウチナーヤマトグチ」体験を紹介していく、と書きましたが、
慰霊の日を前に予定を変更して今回は「命どぅ宝」にします。
第3回
命
どぅ宝
実はこの言葉は私にとって馴染みのあることばではありません。身の回りにあったことばではなく
、かなり大きくなってから新聞やマスコミで頻繁に取り上げられるようになったことば、という印象で
す。したがって若い頃は「命こそ宝って当たり前のことじゃん」と思いつつ何となく実感に乏しく、要
は自分自身のことばではありませんでした。
今でも慣れ親しんだことばとは言えませんが、子供を生み、育て、老眼鏡をかける年齢になり、毎日
のように人殺しや人さらいのニュースが流れる今、前よりは「命どぅ宝」を実感できるようになったと思
います。嫌なことも多い世の中、人生だけれど生きていれば「漬物がうまく漬かって嬉しい」「夕日が
きれい」といったささやかな喜びがある、と。
私が子供の頃は戦争の傷跡がまだ世の中に残っていて、家庭ではそれこそ毎日戦争の話が出てくるし
、中には日本兵の骸骨があるらしい、という噂の洞穴があちこちにあり、戦争で頭がおかしくなったら
しい、という変人奇人(今でいうホームレスでしょうか)もうろうろしていました。学校の先生の多く
は何らかの戦争体験者で、やはり家庭と同じように戦争の話が事あるごとに出てきます。このような環
境だったからか、自然と戦争に関する本も沢山読んでいて、戦争の悲惨さはよく分かっているつもりで
した。
でもそれは全て「子供」であった自分が想像力を働かせて感じ取ろうとしていた戦争体験で、戦時中
11才だった両親の立場に自分をおいてみることがほとんどだったのです。終戦の年の祖母とほぼ同年齢
になった今、もう一度あの戦争(ここでは太平洋戦争、特に沖縄戦です)を祖母の立場で考えてみるこ
とが多くなりました。
祖母は両親とは対照的に、戦争のことを語ることはあまりありませんでした。それは瀕死の息子を見
捨てて逃げた後ろめたさからだったろう、と思っていました。私がその見捨てられた息子である父の立
場に立っていたからです。しかし今、終戦を目前にして夫、長男、一人娘を目の前で次々と殺されてい
ったことを思うと、胸が締め付けられます。今自分が大人だから、ということもあるでしょうが、子供
として実際にひもじい思いをするより、ひもじい思いをしている子供を見ていて何もできないことの方
がもっと辛いんじゃないだろうか、と思うのです。祖母は辛すぎて、多くを語ることが出来なかったの
ではないでしょうか。
命
どぅ宝。昔はちょっとお説教くさくて反感を持ったことば。でも今は、誰のささやかな喜
びも奪われることのない世の中を願って、声を大にして言いたいことばです。
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