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私のウチナーグチ考
1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、
両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思
い入れを紹介します。
第24回 がじゅまるの木の下で
沖縄の県木は琉球松ですが、私にとってふるさと沖縄を代表する木と言えば、何と言ってもガジュマル
です。今回はそのガジュマルにまつわる思い出を書いてみます。
琉球松は中部や北部へドライブへ行った時に見るだけで、学校へ行くようになってやっと県木と認
識したほど馴染みがありませんでしたが、ガジュマルは子供時代の思い出と密接につながっています。
子供の頃、近所に立派なガジュマルの木があって、そこが子供たちの格好の遊び場になっていま
した。同級生の家の門代わりの大木で、その気根が屋敷の周囲の石垣をうねうねと覆っていました。
その木の下がちょっとした遊びの空間になっていて、学校から帰ると男の子はパッチーやビー玉、女
の子はイシナーグーやゴム跳びに、日が暮れるまで興じていたのです。
その空間は木の下と呼ばれ、
何と私の同級生の父親と私の父も同級生で、父の時代の子供たちにっとても木の下
は代表的な遊び場だったようです。だから、その一帯で
木の下と言えば、あそこ、と
老若男女誰でも知っていて、子供たちは学校から帰ると約束したわけでもなくそこに集まり、毎日集ま
ったメンバーによって、さまざまな遊びに興じることが出来ました。何も予定が無い日はとりあえず
木の下に行く、という感じで
す。子供が家に居なければ、親は間違いなく木の下
に探しに行ったことでしょう。
木の下で遊ぶのはもちろん、ガジュマルの大木は沢山枝分かれしていて、枝分かれしている部分が
結構広くて子供3、4人なら楽に座れる広さなので、木登りにもうってつけ。今ではちょっと考えら
れないのですが、私は結構恐がりでどん臭い子供だったのでそこまで登って行く勇気がなく、側の石
垣によじ登って樹上の友人達とおしゃべりするのも楽しみでした。夏の真っ盛りでも木陰はいつも涼
しく、同級生のオバアが機嫌のいい時は、食べやすい大きさに切ってお皿に盛られたバンシルー(グ
ヮバ)を持って来てくれたりして、そこはまさしく夏休みの子供のパラダイス。
まれに、木の下に行っても
子供が一人もいない時もあります。そんな時でも私は地面に大量に落ちている黄色い落ち葉(秋だ
から落ちている、という訳ではなかったような気がします)を拾い集め、年上のお姉さんに教えても
らった通りに編んで、三角の帽子を作り、周囲にカタバミの花でも咲いていればそれを編み目に挿して、
飾り付けていました。そうこうしている内に友達が来ることもあり、来れば一緒にいつものように遊ぶ
し、来なければ葉っぱの帽子を被ってスキップしてみたり歌を歌ってみたり、とにかく一人でも全然
飽きることがありませんでした。
私の家から木の下までは
なだらかな坂道になっていて、木の下
からさらに少し下るとジブガー(儀保川?)と呼ばれている川が流れていました。だからか、
夏になると木の下には蛍が
飛ぶこともありました。そういう時はマヨネーズの瓶を持って蛍狩りに行きました。鉦の瓶のふたに
穴を開け、瓶の中に蛍を入れて持ち帰って、寝る時に蚊帳の中に入れておくと、とってもきれいなん
です。ある時そんな幻想的な光景を期待して「ほたる、ほたる」とつぶやきながら蛍を取っていると、
指にいつもと違う感触が。何だか柔らかい、と思ったものの、そのまま瓶に入れて持ち帰ってみたら、
瓶の中には蛍に混じってでっかい毛虫が!気絶しそうなほどびっくりしました。蛍や金ブンなど硬い
昆虫は大丈夫なのですが、毛虫は大嫌いで分かっていたら絶対に触れません。当時木の下
には街灯もなく真っ暗で、手元が全然
見えなくて蛍の明かりだけを頼りにしていたので、間違って取ってしまったのでしょう。今あの感触
を思い出してもぞっとします。
そんな子供の頃の思い出がいっぱい詰まったガジュマルの木は、幸い今でも残っていて、帰省する
とあまり変わっていない木の下
の周辺を時々散歩しますが、そこで子供たちが遊んでいるのを一度も見たことがありません。子供た
ちの間で、木の下ということ
ばも死語になっていくのかと思うと、ちょっと切ないです。
8/04/08
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