[ちゃんぷるー・どっとこむ
応援団
寄稿]
沖縄
でーびる・その20
文・写真
稲福 達也
し
情
ぬ雨(1)
古典芸能が盛んな島にふさわしく、沖縄の各地に
三線
や琉舞で謡われる琉歌(8・8・8・6の四句30音)の碑がある。不粋な私には、琉歌独特の
方言の表記と読み方が難しくてその味わいがよくわからないが、最近ひとつの琉歌を古い新聞で知って感
激した。
1960年4月16日、南極観測船宗谷が沖縄からの要望で第4次南極観測の帰途に那覇に寄港した時
のことだ。宗谷の嘉保博道甲板長は勝連半島の沖に浮かぶ津堅島の人で、南極観測の偉業に参加した初め
ての県出身者だった。 |
天川
節の歌碑(嘉手納町) |
オレンジ色の宗谷が入港すると、埠頭に押し寄せた約5万人の住民が日の丸の小旗
をうち振り万歳の歓声が湧いた。米国の行政下にあるとはいえ、169日ぶりに日本の土を踏んだ乗組員
は大歓迎に感激したが、嘉保さんにとっては23年ぶりの故郷でもあった。宗谷が沖縄に寄港することに
なり、仏のみちびきだと思って胸がつまるほど嬉しかったという嘉保さんは、港に出迎えた兄姉妹や親戚
に再会し、一晩の予定で津堅島に渡った。“嘉保甲板長帰る”の知らせに島民が五坪足らずの茅葺きの実
家に押しかけた。一人の老婆が、「刺身でクンチグワー(栄養)をつけなさい」と、両親の仏前に涙なが
らに手を合わせる嘉保さんをいたわる。たった一人生き残った88歳の叔母は、風邪で寝ていたのを起き
出してきて涙にくれ、村人達の手拍子に合わせて踊り出した。戦争で50名中19名しか残っていなかっ
た同級生は、“歓迎嘉保博道君 同級生一同”と書いた
幟
を立てて待っていた。
(次回へ続く)
このページに関するご意見、ご感想はこちらまで
|