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[ちゃんぷるー・どっとこむ 応援団 (チバリヨー) 寄稿]

(カナ) さ、 沖縄 (ウチナー)

いとうまきこ

65.神様の仲間

 先日、「沖縄のだらりんとした若い女の子が、神様のお告げを受けてユタとなる」という小説を 読みました。「供養をしなくなった家庭にユタが’御願ブスクです’と教える。グソーの入り口で は、御願ブスクで供養されていない人たちが渦の中に入っていく」というお話でした。沖縄の「ユ タ」は宗教ではないけれど、「どの宗教も、神様の世界は共通なのかなあ」なんて、思いました。 それというのも、私は2週間前に大好きな祖母を亡くしたからです。祖母は99歳8ヶ月、もう少しで 100歳になる、洗礼を受けたクリスチャンで、キリスト教の告別式でした。牧師さんが祖母の好き な聖句を紹介した時、私が大けがをして入院した時のことを思い出しました。包帯ぐるぐる巻きの 私を見舞いに来た祖母はとても心配していたので、「私がけがをしたのは、私はこのダメージを乗 り越えられるから神様に選ばれたんだ。だから、他の誰かじゃなくてよかった」という手紙を書 いたら「まきちゃんはクリスチャンじゃないのに、そういうふうに考えられてえらいね」と言われ たことです。聖句の中にも同じようなニュアンスの言葉があり、それが祖母の大好きな聖句の一 つだったのです。無宗教の私も考えることなので、きっと、どの宗教にも、どの神様にも、同じ考 え方があるのだろうなと思います。
 祖母は天国で、10年前に亡くなった私のもう一人の祖母、(父方の祖母)と会うこともあるのか なあとか、私は天国でおばあちゃんと会えるよね?どっちのおばあちゃんにも・・・など、思いを 巡らし、結局勝手に「うん、会えるはず」という結論を出した私です。きっと、神様の世界の中に も宗教がいろいろあって、この世と同じようにみんな仲良く暮らしているのだろうと・・・。
 残業・沖縄でのお稽古・友達との約束がない日・風邪をひいている時以外、毎日、食事介助やマ ッサージ、話し相手・・・祖母を見舞いました。最期は看取れなかったけれど、祖母と一緒に讃美 歌を歌ったり、簡単なゲームをしたり、話したり、「あの日は見舞いに行けたのに、行かなかった。 」という後悔が残らないようにしようと心に決めていたので、悔いを残すことなくそばにいられ たと思いながらも、さすがに無宗教の私は「おばあちゃんは今、どこにいるのだろう」とか、わけ のわからないことを考えて悲しくなることもあります。でも、最後は叔父が亡くなった時と同じで 「心の中にいるんだ」と納得しています。
 御願ブスクにならないように、心の中でいつまでも、おばあちゃんのことを思い出していたい と思います。

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